序章 到上海

 

 

2002年1月18日夜8時半過ぎ、上海浦東国際空港に着陸。

まだ、三回目の上海にして、私は大きな第一歩を踏み出すこととなった。

アジアで歌うこと、大好きなのにまだまだ知らないことだらけの大都市、

そんな上海で、自分の世界を繰り広げること・・。

“無理かもしれない”と思っていた夢が、今、近い距離で叶おうとしている、まさに、その第一歩。

上手で緩やかな着陸の振動は、

運動会で聞いた、徒競走のスタートピストルに似ていた。

 

ここまで来て、いろんな事を思い返す。

上海に来るまでの道程とは何だったか・・。

それは、たくさんのきっかけが、

不思議な縁をもってこの道への糸を繋げていた。

 

<時代曲>

香港返還を世界が意識し始めた1991年。・・その昔、40年代に上海で花開き、香港に移行していった、かつての華人國語流行歌“時代曲”が復刻された。

“時代曲”のお話をここで少し。

-清朝末期、租界が出来た上海にフランス・パテ社(現フランスEMI)が設立した上海百代唱片公司。パテを百代(パイタイ)ともじったこの上海百代は、まず京劇などの録音、販売を行い、やがて映画スターたちが歌う流行歌を生み出した。そして「何日君再来」で有名な周璇、かの李香蘭など、数々の名歌手がヒットをとばし、國語歌謡の全盛時代を作り上げるに至る。これらは“時代曲”と呼ばれ、まさしく『時代の音楽』として、上海のナイトクラブ、映画、ラジオなどで人々に親しまれていった。大陸の情勢の影響で、49年から拠点を香港に変えてからの香港百代も、音楽界、映画界で華人芸能の核となって存在したが、70年代に広東語ポップスが広く指示されるに従って“時代曲”は影をひそめ、姿を消すことになった。-

この忘れるまじき“時代曲”を、香港EMIが、今も傘下にある百代レーベルから、復刻させたのである。

そして、私が初めてその“時代曲”の数々に出会ったのは、日本でこれらの選曲集が発売された95年のこと。

その頃、フレンチやスパニッシュのサウンドにかぶれていた私が、CDショップでいつものぞくのはワールドコーナー。そこでなんとなく手に取った“上海歌謡”の選曲集。もともと、学校で中国史を習ってからとても興味のある国だったが、音楽は今ひとつ知らなかった。

早速、一枚購入。

これが運命の一枚だった・・。

 

<渋谷ジァン・ジァン>

数々の伝説を残し、2000年4月に閉館となった小劇場ジァン・ジァン。

渋谷公園通りの目まぐるしく顔を変える喧騒の中で、

30年もの間、不動のスペースとして君臨した。

時代に取り残されているようでいて、

実は確実に渋谷の柱となって、本物のエンタテインメントを支え続けた

無二の劇場・・。

私は、あえて歌い手であることを伏せて、

ここで舞台裏の厳しさを学び、そして充実感を味わった。

また、たくさんの出会いは、私の音楽欲を更に深めていった。

日本人でありながら、

韓国の音楽やミュージカルプロデュースの第一人者であるS氏。

彼は、田月仙(チョン・ウォルソン)女史-その後韓国にて、禁断だった日本語の歌を披露して時の人となった、二期会のソプラノ歌手-が、

北と南のコリアンソングを歌う、という独特のライブを

ジァン・ジァンにて実現させた人でもある。

あるお正月明け、そのS氏が、「お年賀ですわ。」と、日本のヒット曲をハングルで歌った韓国人歌手のテープを下さった。正確には、私にではなく、上司のO氏への贈り物だったが、私はこのテープを聴くやいなや、即、くすねた。電気が走るような出会いを感じたテープだった。その声色、選曲・・私と「いい音楽」のツボが一緒なのである。「国境なんて無いんだなぁ。」・・改めてそんな

思いにかられ、いてもたってもいられない気持ちになった。

私の歌や曲も、ひょっとしてアジアのほかの国で受け入れられるだろうか・・。

初めて、“東京”や“日本”以外の場所を意識した瞬間だった。

ジァン・ジァンでは、仕事の後の事務所で、

従業員が演じる“芝居遊び”が流行っていた。舞台は狭い事務所の中。

アジア系のカタコト日本語が巧いのを見込まれ(?)

私には、日本人とタイ人のハーフという役がついた。

しかも、出来るだけ不幸な身の上という設定。

名前はミョンスー。

ミョンスーの父と不倫し、ある理由で別れた後も、

彼女の身の上を気にかける一人の女性に、

ジァン・ジァンのカリスマ受付、たかみ女史。

この“芝居”は、想像力と創造力豊かな人間達のストレス解消の域を脱して、タイロケ敢行のビデオ映画「ワンニー、プルンニー~今日、明日~」と

なるに至った。

この撮影の時、初めて訪れたバンコク。

数日しかない撮影日をフルに動き回り、へとへとになった最終日の夜、

一行は、屋外で演奏するバンドに出会った。

男性ヴォーカルだったがカーペンターズをカヴァーしていた。

巧いバンドか、といえば失礼ながらそんなことは無いのだが

本当にここで歌うのが好きな人達だ・・ということを

強く感じた。そして、集まって来る人だかり。

単純に、また、

私がここで歌ったら、この人達はどんな風に聴いてくれるだろうか、と

想像を膨らませた。

ジァン・ジァンが全国紙を賑わせて幕を閉じた後、

私は、3年半ぶりに出来た“長期休暇”を、

迷わずアジアを巡る旅に費やすことを選んだ。

ジァン・ジァンにまつわる“アジア”も堪能した。

奄美大島では“うたしゃ(歌い手)”の世界を長年に亘って伝えている

築地俊造氏のお宅に泊まらせて頂き、

生でその歌声を聴かせて頂く機会に出会えた。

沖縄では、沖縄ジァン・ジァンの跡地と、当時をよく知る沖縄そばのお店や、居酒屋などを巡った。

ソウルでは、先述のS氏大推薦、ハクチョン劇団のミュージカル、

“地下鉄1号線”を観劇、

出演者の歌の巧さに舌を巻いた。

そして、上海への留学。

その響きの美しさに魅かれながら

全くといっていい程、読めないし書けない中国語。

これを学ぼう、あの“時代曲”の生まれた街で・・。