2001年 冬天
まだ先だと思っていた12月は、すぐにやって来た。
留学以来、二度目の上海。
上海大学でお世話になった江先生に頼んで、
大学の来賓楼に安い料金で宿泊させてもらった。
そして到着翌日、初めて“上海新天地”を訪れた。
ARK・・ARK・・ARK・・、あった。ここか!
入り口がイマイチわかりづらいけど、とにかく入ってみた。
わぁぁ・・、広い。おしゃれ!
それが第一印象。
かつてあった日清パワーステーショくらい・・いや
もっとゆったりしてるなぁ。
ステージを所狭しと動くバンドに、自分の影を重ねてみた。
無限の可能性・・そんな言葉が浮かぶ。
何も考えず、その日の出演バンドをたんまりと楽しんだ。
◆
K氏に挨拶をした後,MARIさんという日本人の女性を紹介して頂いた。
本当に“可愛らしい”という言葉がピッタリなチャーミングな女性だが、
日頃、上海にいないK氏に代わって、ARKの全てを監督している才女である。
日本から来た、何モノか分からぬ坂上輩に、心から丁寧に接してくれた。
◆
「今の上海を見に来た」という名目ではあるが、
私の心はとうに決まっていた。
空いた時間に、持ってきたノートPCで、住居探しを始めた。
「今、上海にいるので、物件すぐにでも見たいのですが・・。」と送信。
日本人だと分かると、とんでもない家賃をフッかけてくるところもある。
何件も何件も、アクセスし、電話してみた。
◆
・・・・12月8日、レンタルの携帯電話がいきなり鳴った。
出てみると、大阪にいる母である。
上海の携帯にわざわざ電話してくるなんて・・・・
良くない話であろうことはすぐに察しがついた。
でも、そんなに思わぬ事とは・・・。
母の声は、震災の直後にかけてきた電話よりも震えていた。
「伊織・・びっくりしたらあかんで、びっくりせんと聞きや・・。」
涙もろくても、取り乱すことは少ない母である。
「なによ。どないしたん?」
「ユウコ叔母ちゃんが、・・ユウコ叔母ちゃんが・・」
母の言葉は、涙に埋もれてしまった。
私が上海入りした12月4日に、“簡単な手術”で入院したユウコ叔母。
大した病気では無かった・・。
ユウコ叔母ちゃんが、なんで・・・。
ちょうど私が帰国する10日がお通夜だという。
どこまでも面倒見がよかったユウコ叔母は、
こんな時にも、私が最後の挨拶に間に合うように計らってくれたのだろうか・・。
入院直前に初の内孫が生まれ、それを見届けて
「私も赤ちゃん産むねん!」と粋な冗談を言って、
病院に入っていった人だった・・。
そして、何よりも、私の両親が離婚した時に、
傷心の母と姉と私の面倒を、一切引き受けてくれた人だった。
小学生だった私、中学生だった姉にとって、
それは、どんなに試練を救ってくれる存在だったか。
毎年、親子で食事などする機会には、必ずその話題になり、
「ユウコ叔母ちゃんがおらんかったら、どないなってたやろなぁ。」
と、しみじみ回想する。
まさしく、“第二の母親”だった、ユウコ叔母・・。
◆
しかし所は上海。私にはやるべきことがある。
初めは、「ほんまにやる気あるの?」という懸念も持たれていたかも知れないが、
こうしてARKに来た坂上に、
K氏もきちんと今後の展望を話し合う姿勢で接してくれた。
もう、上海で、定期的に活動をする現実的な準備をしなくてはいけない。
この数日で、何軒かの家主さんと、物件を見させて頂く約束を取り付けていた。
その中で、中国人の男性と、日本人女性のご夫婦がお持ちの物件があった。
郊外ではあるが、日本人が暮らし易いように、いろいろな工夫が施されている。
バスルームには深い湯船が設置され、日本人の生活では分からない特殊な設備には、
きちんと日本語で説明が書かれている。
バス停からは徒歩1分。・・
でも大家さんは、親切にも私の家と職場との通勤疲労を考えて下さった。
バス通勤で、ここからARKまでは調子のいい時で50分。
渋滞していると1時間半以上はかかる。
試しに、その場所からARKまでバスに乗ってみた。
ラッシュを少しはずした時間のせいか、さほど苦では無かった。
“ここだな・・・!”
もう直感に頼るしか無い。決めた。
上海大学の江先生にも
バスや地下鉄周りのことを事細かに聞いた。
地図を描きながら、丁寧に説明して下さる。
「ここに行くにはこの番号のバス。ここで乗り換え。」
たくさんの“貴重書類”が、どんどん増えていった。
◆
ARKの一室で、K氏が、ゆっくり話す機会を設けて下さった。
“職はどう・・?”
“いえ、まだいろいろ交渉中で・・。”
実は、まだここだけの話だが
MARIさんには他にやりたい事があって
ARKでは、彼女の代わり・・というかアシスタントを
やってくれる人を探している。
生活出来るくらいの給料は出すし、
ARKで働きながら、ライブ活動をやっていく、という方法もあるよ。
職には困っていた。
とても、有難い話だ。・・
でも、ステージに出る側と現場スタッフ。
これを両立させるのはどんなに難しいか。
ましてや中国で初めて出来た、“初めて”だらけのライブハウスだ。
ジァン・ジァンの経験で、舞台と舞台裏、この両立がどんなに大変か、
少しは分かっているつもりだった。
さらにK氏は言った。
1月25日、この日は上海のライブシーンの歴史が変わる日だから
この日までに出て来て、その瞬間を自分の目で見ておいたほうがいい・・。
1月・・。
日本から大御所のミュージシャンがARKに来て、
上海の若いバンドとセッションをし、
それが、NHK-BSでドキュメントとして放送される、との事。
それは、本当に観たい。
しかし、あと1ヶ月・・。
単純に、「住むとしたら、春あたりから・・。」と考えていた。
でも、今の私に“躊躇”の時間は無い。
最初から、前進する為にここに来たのである。
「・・・分かりました。来月、上海に出て来ます。」
この返事で『契約成立』となった。
◆
10日、帰国。いろんな思いが頭を巡る・・・。
成田から自宅へ戻り、黒い服を揃えて新大阪行きの新幹線に乗った。
とにかく急いで到着したかった。
兄弟のようにいつも一緒だった、従兄弟の“かっくん”が喪主である。
・・・やはり信じられない。私は何をしに故郷へ向かっているのだろう・・。
◆
深夜、地図をたどって着いた西宮のお寺では
かっくんも母も姉も、棺の近くでお酒を酌み交わしていた。
九州から、親族が全員駆けつけていた。
坂上家の長男である三郎叔父は、
「伊織!まぁぁ・・遠くからユウコの結婚式にようこそ!
・・じゃったらよかったんじゃがねぇ・・。」ひょうきんな叔父流の出迎えである。
遠くから、という意味が日頃は「東京からわざわざ・・」なのが
今回は上海である。
みんな、とても気を遣ってくれた。
けれど、そこにいるみんなの方が疲れているのは
一目瞭然だった。
2ヶ月ちょっと前に、祖母が他界したばかりである。
四十九日を終えてややほっとしたのもつかの間、
今度はその祖母の面倒を一番見ていたユウコ叔母の急死。
考えたくなくても「ばあちゃん、なんでユウコおばちゃん、連れていったん・・?」
という気持ちになる・・。
お通夜、お葬式・・ひたすら姉と従兄弟とでお酒を酌み交わした。
◆
東京に戻る頃、最悪な事態になっていた。
全くと言っていいほど声が出ない。
上海での事と、ユウコ叔母の突然の訃報での疲れが、
こんな形で出てしまったのだろうか。
東京に着いて、ある程度の荷物を解いてからすぐ、
カメラマンのELEN宅に飛び込んだ。
筆談で、ELENに必要事項を告げ
かかりつけのF先生の所に電話してもらった。
「本人、今全く声が出ないんで、代わりに電話してます!」
ELENが、診察の予約を取ってくれた。
胃カメラ、ならぬ声帯カメラで検査してもらう。
急性のものだ、大丈夫!ということで薬をもらって帰宅した。
現に、数日でなんとなく話が出来る状態になった。
しかし、留学代行の仕事をしていた私は
まだまだ電話に出て顧客と話せる状態ではない。
早めに社長に「上海に行く事に決めたので退社させて頂きたい。」と
言わなければならないのに、・・・
失礼ながら、ほとんど筆談で“退社願”・・という羽目になった。
声の症状は、良くなっては、ぶり返し、良くなっては、ぶり返しで、
1ヶ月先の『ぼちぼちライブ』にまで影響することとなる・・。
◆
時間が無い。
上海へ行く準備。何から手をつければいいのか・・。
国際引越の見積もり。
家のもの、特に家電用品は電圧が違うということと、
税金がかかるという理由でほとんど持っていけない。
友人に連絡して引き取り手を捜す。通関税の見積もり。
なんと私の手持ちCDを全部持っていくと、40万円近く通関税を取られるという。
調査。調査。東京から上海へ、オフィスミョンスーが移転する事の知らせ。
留学の仕事の引継ぎ書作成。上海のMARIさんとの密な連絡。
そして、いつもは年末年始、あまりライブを入れないようにしているのに、
今回に限って1月13日の“ぼちぼちライブ”までに本番が4本控えている。
リハーサル、本番、リハーサル、本番。
渡中資金も少ない。年末も正月も無く、仕事をみっちりと入れた。
出発は1月18日に決定。
この事を親に連絡するのも、すっかり忘れていた。
明日はこれをやって、これをやって・・。
ベッドに入っても、考える事がありすぎて眠れない夜が続く・・。
この辺に住むことになるのか・・・。探索、探索。
黄浦江は、大好きな河。この河の水は揚子江へと繋がっている。