2001年 秋天
2000年7月から8月へかけての上海大学短期留学をきっかけに、
私の中国熱は不動のものとなった。
キツい事はもちろんたくさんあった。
初めて宿舎で水道をひねった時、その臭いに
これから毎日この水で生活するのか・・、と愕然とした。
どこかのエアコンからおちる水滴が、
昼夜、鉄板のような場所に落ちる音が聞こえる。
ターン、ターン、・・ターン
響く、響く・・気にするな、と思えば思う程、脳に響く・・。
毎日毎日・・気が狂いそうになる。
しかし、この街の魔力はどこに潜んでいるのだろう。
ここに住む人達の力、言葉の美しさの力、歴史の力。
実態は計り知れない。
いつしかすっかり、何もかもが魅力と化していくのだった。
◆
日記をつけても今まで絶対続かなかった私が、
この留学期間だけは、毎日、その日の出来事と使ったお金を記録した。
また、その日記帳には、東京⇔上海の往復航空券に始まり、
現地で乗ったバスの切符、観光した先の入場券、領収証、学食の食券・・
ありとあらゆるものを貼り付け、留学生活が詳しく分かるように
してあるので、今でも私の大切な『上海バイブル』として活躍している。
留学の最後の週に、豫園で金のブレスレットを買い、
その場で店員さんに、外れない様につけてもらった。
「近い未来に、また上海に来られますように・・。」
そう思いを込めて、選んだものだった。
今度来る時は、遊びや勉強ではなく
自分自身の開拓の為にこの地を踏むんだ・・。
ブレスはもちろん、今も私の利き手で光りを放っている。
◆
帰国してから、中国、特に上海人の友人が何人か出来た。
「上海で、歌える所、どこかないかなぁ?」
著名な歌手は、大陸に渡って大きなコンサートが開けるけど
私のようにライブハウス級のアーティストが歌える所・・。
その友人達に私は聞きまわった。
「大学の学祭がいいんじゃない?」「ライブ聴かせる店が何軒かあるよ。」
みんな、親切に教えてくれた。
“学祭・・いいかも知れない。”
そんなことを考えながら仕事に追われ、
帰国から1年あまりが過ぎようとしていたある日・・。
毎週届く日中交流のメールマガジンで、ある一文が目に留まった。
「この間、上海に行ったら新天地というスポットが出来ていた。いろんなレストランやライブハウスもある
ちょっとしたエリアだったよ。」
・ ・ 新天地?・・ライブハウス?
昨年まではおそらく無かった上海事情。
この短期間にそのような場所を創ってしまうのか、この国は・・。
◆
とにかく調べよう。
キーワードは、上海、新天地、ライブハウス。
これだけあれば、ネットで検索出来るだろう。
しかし、意外と時間がかかった。
どうやら、独自のサイトは持っていないらしい。
新天地、という言葉ではすぐに何件かサーチされるが、
ライブや音楽に関する見出しが無い。
それに、ライブ、と言っても、
いわゆるハコバンしか出られない場所がほとんどである。
一件一件、丁寧にチェックしていった。
その中で・・『ARK』という文字が初めて出て来た。
?・・これか・・?これでありますように。
開いてみると・・。
ここで観たライブレポートを掲載した、一般の人のページだった。
やった!“get”という単語がサッと走った。
しかも親切に住所と電話番号が書いてある。
即効、慣れない中国語フォントを使って、手紙作成を開始。
“ワタシハ、ニホンデウタッテイルモノデス。ゼヒ、ソチラデウタワセテイタダキタイノデスガ、ドノヨウニテツヅキシタラヨイカオシエテクダサイ。”という内容だったと思う。このたった数行の中国語を書くのに、単語を調べ、ピンインを調べ、丁寧語を調べ、何冊もの参考書を開いたりで
3時間はかかったと記憶している・・。
中国語の堪能な人に代筆してもらえばすむ話なのに・・・
この手紙だけは自分ひとりで仕上げたかった。
◆
時勢は同時多発テロがあったばかり。
エアメイルが届くのにはかなりの時間がかかるだろう・・。
気長に待つ気持ちと、何らかの反応を早く求める気持ちで、
何日か過ごしたある日・・。
その返事は意外にも早かった。手紙を投函して7日目。
そして電話の向こうは、これまた意外にも日本語だった。
◆
電話の主は、ARKトップ陣の一人、O氏だった。
「今、上海にいるので、数日後東京で会いましょう。」
!!!!!
私のその時の気持ちはちょっと表せない・・。
電話でもとてもドモッていたと思う。
・・そしてO氏とお会いする日がやって来た。
きびきびしているがとても辺りの柔らかい紳士、という印象で、
私は初対面ですっかり安心してしまった。
「よく知ってましたねぇ、“ARK”のこと。業界の人くらいだよ、うちの名前知ってるの。」え、そうなんだろうか。
とにかく持って来た音資料と、プロフィールなどを渡した。
上海で歌う時には、どのような手続きが必要か、またどんなものが望まれるか、様々なアドバイスを下さった。
O氏は、一瞬考えて、「そうだ、来週、時間作れますか?」
つくるつくる!「はい、大丈夫です。」
「じゃあ、そこの関係者の人がちょうど東京に来るので、紹介しましょう。
その時に、自分がどんな風にARKでやりたいか、言う事をまとめといた方がいいかも知れないです。」O氏は仰った。う~ん、その気持ちを言葉にしたり文字にしたりするのは、とても大切な事ながら、私はとても苦手だった。
でも、そんなことは言ってられない。
◆
後日、O氏から再度連絡を頂き、
待ち合わせの溜池へと出かけていった。
紹介されたのは、ARKの社長K氏。
「ライブハウス」という言葉を創った“ライブハウスの父”と呼ばれている人である。
手がけたライブハウスの名前を聞くと、東、西と、有名スポットばかり。
やはり柔らかい雰囲気を持った、しかしながら周りの気温が高く感じられる、
関西人紳士であった。
関西、ということもあって、ひとしきり西のライブハウスの話に花が咲いた後、
「ところでなんで上海なの?」
という質問が来た。いよいよだ。いい加減な気持ちで手紙を送ったとは
思われたくない。
自分なりに考えてきた音楽のアピールをぶつけてみた。
そして、ダメモト!と思いつつ、
「ちゃんと上海に腰を落ち着けて、活動する気持ちもあります。」と添えた。
この言葉には、「ええ?ほんまに~?」というK氏の表情が感じ取られた・・。
しかしながら、判断力の早いO氏とK氏は、
「その気持ちが本当にあるなら、
まず上海で生活がきちんと出来る様に、現地での仕事、見つけた方がいいね。
歌だけでは、初めはもちろん無理やから。」そうアドバイスして下さった。
でも中国語がほとんど出来ない私に何の仕事があるだろう・・・。
いや、考えるより、探そう。上海で歌える第一歩になるならば・・・。
12月初旬に、K氏がARKに出向くとのことで、O氏が
「今の上海を見ておいた方がいいでしょう。
よかったらその時、一緒に上海に行ってみなさい。」と助言して下った。
やはり、短い間に上海は相当な変貌を遂げているらしい・・。
その日から、12月の上海行きの準備を始めると共に、
ネットで上海での就職活動を始めた。
昨年、探しに探した「上海新天地ARK」
上海新天地はライトアップも粋な風情のある一角。